感情を降りるという所感
感情の中で生きる私。そこから降りられたどんな世界が拡がっているのだろうか。
というか、メリットが多くないだろうか、この感情から降りるというやつ。腹を立てるだのあいつがどうでムカつくだの、自分は怒りを中心にこの世界を見ているのかもしれない。そこに使った意志力のようなものは計り知れない。もっと自分を怒りじゃなく、違うようにアゲたいのである。怒りを処理するのは簡単ではない。だが、もっと建設的に考えられるはずだ。関係ない領域であればそもそも意志力などのようなものは使う必要はない。関係がある、としてもそれは結局自慰行為になり果てるのではないだろうか。
としても、自慰行為のメリットはなんだろうか。自分が脳内物質ですっきりするだけである。根本的な悔恨は残ったまま。やはりまた蒸し返すのだ。自分の場合、三大欲求に加え、怒り欲求というのがあるかもしれない。直接的に、いわゆる「行動」でなにかしたとしてもそこには悔恨が残る。気持ち悪い。であれば、「行動」の内容を考えなければならない。言いたいことはある。でも悔恨が残る。とにかく相手を追い詰めることは目的ではないだろう。傷つけるのではなく、自分が変わりたい、「気持ちよく」なりたいのだから。
他人を変えようなどということほど徒労に終わることはない。何を変えたいのか、そこが焦点である。やはり自分であろう。ここで、感情から降りる世界があるのだろうか。ブッキョー的であるな。いや、感情から降りられなくても、クレヨンしんちゃんのネネちゃんのごとくサンドバッグ()をぶん殴るのも一つの手だとは思うのだ…笑
重要なのは自分の怒りで他人をコントロールしようとしないことであろう。世渡りとはよくいったものでそんなのは他人のコントロールを重視した生き方だと思う。自分の舵取りはまったく出来ていない。断言(笑)したい。
あいつ馬鹿だよなぁなんて言われてるけどそこで怒るかどうか。せっかくの意志力を他人に使ってしまうのか。単純な話ではあるが難しい話。
自分の世界を守りたい。殻に篭りたい。籠城したい。そう、もっと勝手に生きたいのだ。世俗を離れたい。そう思うと感情から降りたくなってくる。何をしたらいいのだろうか。いや、そういった類の書物はあるのだがいかんせん重い(物理)。
怒りは確かに原動力であろう。なにも理不尽に無抵抗であれ、というのではない。あまりにも世の中には怒りをかきたてる事象が多すぎることも問題であろう。
ただその受け方であるな。怒りを他人をコントロールするツールにしてはならない、それがまず念頭に置かれなければならない。
聖人君主か!という話ではあるが、これを意識するかしないかではだいぶ違うような気がする。
ブッキョー的な話でいうと当たり前のことなのだが。でもそこまで馴染みのない自分は怒りを他人のコントロールに使うな!というのが命題に上がってくるのであろうな。
そんなとこから、怒りから、感情から降りたいと思う。そうして意志力の損耗はいくばくか和らげられる。まあ、しばらくサンドバッグは殴ると思うけども。
お わ り