140字じゃ足りないものたち

セイム シット、ディファレント デイ。

ボディブローが入ったという話とか

先日、親戚たちとバーベキューをし食事をする機会があった。

まずまず食べ、飲み、話題はとあるパワハラのニュースの話になった。

 

聞きたくないと思っていたが、まあ聞こえてくるのでストレス源だった。と、その場を一旦離れようとトイレを借り戻ってきたところ、銘々語気が荒くなっているではないか。また耳に入ってくるわけで、内容は、お爺の主張としてパワハラ自体はその場、やったやつとやられたやつで解決・消化するもので会社の価値を判断する材料にはならん!という感じだったかな。お爺は特段パワハラ体質ではなく人当たりはよい。ただ価値観というか根底にあるものが確実に違うなという。

年代なのだと思う。そうして5,60年仕事で生きてるんだもの。増して働けば働くほど対価が増える時代を過ごした人だから。仕事が出来るかどうかっていうのは重要なポイントなんだろうな。

 

これは冷静に言えばの話である。しかし強い感情は持った。違うだろと。この時点でボディブローが入っていた。

人が自死にまで追い詰められたことを仕事ができないから仕方ない、くらいにみえた。それは明らかにおかしい。激情だった。

そうして極端な思考になった。仕事で人間としての価値が決まってしまうのだなと。そもそも仕事、働くことは労働の対価として通貨をもらえることがその価値、手段でしかないと考えている自分は、労働が人間の価値を規定するなんて、なんの地獄だってスタンス。

だがここで、ボディブローを食らっている自分が考えるのは、やはり労働者でなければ人間ではない、生きる価値はないということだった。よく陥る「ふつう」からの脱線である。

もう「ふつう」に生きることから降りたつもりだったがまだダメージを感じるということは、まだ気にしてるということなんだろうな。

 

だがちょっと待った、そもそもこの出来事って自分の領分が侵食されたものなのだろうか。自分に向かってお前は生きる価値がないと言われたのだろうか。言われていないだろう。冷酷な言い方をすれば、自分に関係ない。

自分は「はあ、そうですか。私は違うと思いますかねぇ……。」と、それで終わりでよいのだ。

自分は害されていない。であれば、領域の外。深く考える必要はない。

 

と、腑に落ちるまで2日でした。まあこうやって言語化しケアしなかったのがボディブローで負ったケガが長引く原因であったのだろうなと思う。

労働に対する価値観は変わらない。さっき言った「ふつう」という領域は単に自分の住める環境ではないというだけ。

多様な生き方、とは簡単に言われるが実際そうなるのは簡単なのかもしれない。だってマジョリティから降りますって言えばいいだけだもの。

何がそれを難しく思わせるのか。いや簡単だとは口では言えるが腑に落ちてはいない、実際。

しがらみ、負い目等そういうものだろうか。

こういうものを払拭する方法っていうのは、上でやってるような目の前の出来事は自分の領分なのか、つまりその出来事は自分を害するかどうかっていう自他の境界の切り分けを丁寧にしていく作業なのだと思う。

領域が出来て防壁も出来ているのなら、自分の住む環境も固定化されると思うのだけど。良い悪いは別として。

 

もっと自分勝手生きたい。自分勝手した責任はちゃんと自分に降りかかってくるからそこはいいのだけど。

自分勝手、自由に生きるとはそういうことなのだろう。そういうことというのは、自分の行動に責任を持ってこそ自由であるというか。ただ、なんかここら辺はあまり考えたことがないのでようわからん。近いような気がするのは、「一身独立して一国独立する」ってのかな。

またよくわからなくなってきたけども……

 

閑話休題。今回のボディブローお見舞いされたのか!?事件は自分の領域と防壁づくりに貢献した。それは言語化することによって俯瞰され、自分のしんどさを低減してくれる。今後もどこでもいいので書いていこうという話。

「それって本当に自分に関係ある?害されてるの?」

というフレーズで。私はこれで生きやすくなるのだ。という暗示をかけておきたいなぁという話でした。そんなかんじ。

 

お わ り