140字じゃ足りないものたち

セイム シット、ディファレント デイ。

安堵ということ

安堵

物事がうまく行って安心すること

安堵する、ということが全くない。常に不安定な心持ちだ。うまくことが運ぶということにも種類があると思う。そのままの意/敢えて物事から遠ざかる、逃げることで安心を得られる場合もあると思う。

今回は遠ざかる、逃げるということを想定して考えてみたい。

一番重要だと思えるのはこの前提条件として成り立つであろう、逃げても隠れることができるバックグラウンドがあるということだ。綱渡りの安全ネットのようなものも想像できる。これがあるからこそ選択肢に逃げるが挙げられるようになると考えられる。それ以外となると、運、としか言いようがない。

自分の場合だが、このバックグラウンドがないのだ。何に際しても安全ネットがなく苦しんで苦しんで綱を渡りきるのだが、渡りきる頃にはもう苦しみから得られるものは何もなく苦痛としてそれが記憶される。逃げることはできない。

 

バックグラウンド、というもので考えられるのは宗教、ということが挙げられるのではないだろうか。単にキリスト、仏等に限らず日本であれば八百万の神々を信仰するというのもある。実在のモノを信仰する場合もあるだろう。神と囃し立て、そのもの例えば文学、アニメ作品、ゲームに信仰しているとみえる例も中々現代にはあるのではと思う。

"ふつう"、人は何かを信仰している、だからストレス等にも耐えられるのではないかと思う。信仰しているものが助けてくれる、心の何処かでそう思えるからこそ、この必然なのか偶然なのか解らない世界を歩くことができる。それは神が与え賜った試練なのだ。それをやり過ごしていくことが徳を積み楽園へと導かれる方法なのであると考える人々。単にモノ、バイブルのようなものが自分を待っていてくれる、そんな気持ちが"試練"を乗り越えさせることもあろう。

 

私はそういう人が羨ましい。軽蔑などではなく。心から身を捧げられるモノがある、自分を待っていてくれる、ひいては守っていてくれるようなモノが私にはない。捻くれものなのか。不信に陥っているだけなのか。素直に生きたい。すがるものがほしい。孤独だ。

 

孤独は嫌いではない。だが、私の好きな孤独とは、孤独は大変なものだと話をする孤独な相手がいてこそだと思っている。やはり人は、いや私の想像する範疇では人は一人で生きていない。

 

一人は辛い。安堵させてくれ。